藤原先生のご挨拶


   

藤原先生のご挨拶

 さて人間は誰しも、その人の一生の間には幾度かの節目、思わぬ事件、あるいはまたとない機会というようなものに遭遇し、しかもそれ等がその人の人生を左右し、同じ人間が別の人生航路を試してみるというようなことは出来ません。我々はこれを運命といっていると思います。 比較的平凡な道を辿った私の人生にも幾度かの私の運命を左右した曲り角があったと思います。
 私が小学校の時、担任の山本利一先生から習んだ言葉で、痛烈に私の記憶に残っているものは、“韓信の股くぐり”という言葉であります。 また私の母からうけたものは“ならぬ堪忍するが堪忍”という言葉で、父からうけたものは“service above self”という英語であります。 父は古いロータリアンであったので、英語のわからぬ小学生の私にこの言葉の意味を教えてくれたのです。 この三つの言葉は長い私の人生において陰に陽に私を支配したと思います。この為か、私は、はげしい喧嘩が出来ないような人間になったと思っております。
 私は小学校で、卒業に至る4年間を同じ山本先生に学びました。しかしこれは大きな理由があったのであります。それは私が大病を放しまして4年生を二度したためであったのです。 山本先生は成績がよいから進級をしてよいと父母に話したらしいのですが、私の父が頑としてこれに反対したのであります。健康こそが、 人生での第一議のものであるということが、衛生学者であった父の信条であったことは当然ではありますが、幼かった私にとっては落男ということは、しばらくの間耐えられない悲しいことでありました。恐らくこの時山本先生は私に韓信の話をしてくれたのだと思っています。しかし、ともかくも、このことによって、私は子供なりに、はじめて自分の健康の大切さを身にかみしめることが出来、 朝食前に氏神様へお参りをするというような健康法を実行するようになりました。
中学、高校、そして大学の前半では、健康のためテニスに熱中しましたが、身体だけ強くなってもらえばと思っていた父母からは、 お陰で、一度も勉強をしろといわれたことはありません。 テニス生活での思い出は尽きぬものがありますが、私の人生を左右した一つの思い出を申し上げますと、それは大学3年の私の関西学生選手権大会に出場した時のことであります。私は勝ち進み、当時全国ランキングNo.6の生島君という相手とメインコートで対戦致しました、第1セットをとり、第2セットも5対3とリードし、しかも私のサービスがよく決まりフォーティラブとして三つのマッチポイントをつかみました。もう勝負はあったと思いました。しかし結果は挽回に挽回をされてついに涙をのんだのであります。 新聞には京大の藤原があれまで生島をおしていたのに負けたのは練習不足かと書かれました。振り返ってみますと、若しこの試合に私が勝っていたら私はあるいはランキングプレーヤー になっていたかもわかりません。しかしその替りとして私の医学に対する情熱も大きく変っていたかもわからないのであります。私はこの悔しさを契機としてテニス生活に終止符をうち、衛生学教室の戸田正三先生の教授室を訪ねたのであります。そして大学卒業後直に助手となり、間もなく海軍にはいり駆逐艦の轟沈という激戦から、九死に一生を得て帰還し、終戦後再び元の教室にもどってからは、私は私の体力にものをいわせて遮二無二研究にはげみました。この時代に、後にオルガノの研究部長になられた清水博先生と同じ研究室で頑張ったことは私のその後の研究に大いに益するところがありました。しかし、研究の成功とはうらはらに、不幸にも私達夫婦は、戦争中あれだけ可愛いがって育ててきた長男を亡くすという、とりかえしのつかない悲しい出来事に打ちのめされたのであります。研究のためとはいえ、ついちょっとした私の油断であったという呵責は、今日でもこの児の年を数えさせるのであります。色々と苦しみ悩んだすえ、私はこの子供の為に私の仕事をまとめた本を出版しようと決心しました。そして、ようやく原稿も脱稿に近づいたある寒い日の夕方、私は私の実験台の上に異様な螢光を放っている一本の試験管があることを発見したのであります。それは実験室の西の窓から差し込んだ夕陽に照らされて光を放っていたのであります。その夜は徹夜を致しました。そしてこの予期もせぬ発見が、今日世界中の研究室で、ビタミンB₁の化学的定量法として用いられているB₁・ブロムシアン・アルカリ反応というものであったのであります。私はこの子供の為に書いていた本の最後に追補の形でこの発見のことをやっと載せることが出来たのであります。科学者が何を言うかと笑われることでありましょうけれども、 私は自分の長い経験から又この反応の発見などから神や仏を信じる人間になっているのであります。
 さて、この反応の発見者が果して私であるかどうかを確める為には、その当時のように文献の情報交換の少ない時代には、アメリカの化学協会に論文を出してみることであったので、私は早速この反応をかいた論文を送りました。約2ヵ月程して、化学協会のマーフィーという人から手紙がまいりました。胸をときめかして封を切りました。それには“あなたの発見した反応は確に注目に値します。そして永久的な文献に地位を占められる可きものであると思います”と書いていたのです。私は世界ではじめてこの反応を発見したのでありました。ところが続いて“しかしながら、あなたは螢光を肉眼で測っておられる、どうか機械で測った正確な数字をお願いします”と書いて私の論文は送り返されてきたのであります。
 私は、ここではじめて、アメリカでは既にその当時色や蛍光を測定する機械が開発されていることを知ったのであります。そしてこれが動機となって、我国最初の螢光計が私の実験室に輸入されることになったのです。この機械の輸入によって、それから我国の機械業者が比色計や蛍光計を造り出すようになったことは申しあげるまでもありません。さて、この様に私が定量反応を発見していたところへ、卒業したばかりの現三重大学教授松井清夫君、ついで秋には現兵庫県公害研究所長渡辺弘君が入局、つづいて多くの研究者がはいってくるということになり、私の発見した反応は確実に実用化されることになって、この反応をつかうことによって、次々と色々な新しい研究分野が広がって行きました。現在、自由圏、共産圏の区別なく人々に愛用されているアリチアミンもこの反応を用いての発見の一つであったのであります。
このように、私の実験室に集ってきた研究員は総じて一騎当千の頑張り屋でありました。また研究を手伝ってくれたお嬢様方も皆、本当によく働いてくれました。このような多くの私の研究協力者は、今では皆立派な社会的指導者、あるいは立派な家庭の夫人となっております。私は本当によい協力者を持ち得た幸せ者でありました。
以上、私の長い大学での研究生活を振り返ってみますと、私は大学3年生の時戸田先生からあてがわれた、衛生学教室の西南の角の実験台に41年間かじりついていたということになります。そして若し、この西南の実験台があてがわれていなかったとしたら、夕陽によって発見した上述のような反応の発見がなかったであろう、従って、私の其の後の研究の発展もなかったのではなかろうかとも考えられるのであります。人の運命というものを今さらながら、つくづくと考えさせられるのであります。
 今私は41年間と申しましたが、正確にはこの実験台から離れたことが二度あります。一度は申し上げるまでもなく戦争の時であり、他の一度はあの馬鹿げた学園紛争の時であります。戦争の時は私の艦は轟沈しました。しかし、大学紛争では師弟間の問題で沈没する多くの教室があった中で、私の教室はついに、立派な私の研究協力者の力で、まったくの不沈艦であったのであります。
 学園紛争は多くのハプニングを重ねつつ、京大医学部では多くの教授が博士審査権を放棄すると言わざるを得ない状況に追いやられ、これが新聞にまで載る始末でありましたが、若し、私に敢て紛争中の手柄話をしろといわれますならば、その大衆団交の席で、私はこの教授たちが自ら審査権を放棄するという雪なだれ現象を、私の処で断固としてくい止めてやったということであります。しかし、私は単に教授としての責任と義務を至極当然のこととして守ったに過ぎなかったと思っております。
 さて、かつて私の恩師戸田先生は長崎における衛生学会の時、精神衛生の大切さをとき、ある新聞に、大学教授にも20パーセントちかく、おかしな者が居るのではないかと書かれたことを憶えております。この数字のさだかさは別として、徹夜をし、日曜もなく、たとえ如何なる来客がきても実験中は実験室で実験をしながら応対してきた自分を振り返える時、私自身もこのおかしな者の一人ではないかと疑ってみる必要があるようです。しかし、若し幸にして、皆様が、“いや君は大丈夫だ"といって下さるのでありましたら、それは今日まで長い間私に世間の常識を教えて下さった。
 かくして、63歳という定年はあっという間にやってまいりました。それは、ちょうど衛生学がようやくわかった時のようであります。しかし、老化は今日の医学では防ぎ得ないものであり、この私にも充分にそれを証明する医学的証拠が多いのであります。従って定年制はよいことであると思います。そして私は、私達が今まで積み重ねてきた知識が、より強力に、より早い速度で、より新しい方向に展開されることを、私のあとにつづく衛生学教室の後任や若い研究者に期待するのであります。
 考えてみると、私は、私の幼少年時代から望んでいた医学、特に衛生学の道を生涯つづけえた幸福者であっただけでなく、その努力が多少とも報いられた一人の幸運な男であったと思います。
 そして今、私は再び小学校で習んだ言葉を思い浮かべているのであります。それは朱熹にある"少年老い易く学成り難し”という言葉であります。

昭和56年3月刊行の藤原教授退官記念誌からの転載
昭和56年3月刊行の藤原教授退官記念誌からの転載